2009年10月27日 18:21
2009年10月27日 17:59
2009年10月27日 17:31








10月25日、日曜日、「てしかがエコウオーク、強酸性温泉が作り出す標高150メートルの高山植物帯を歩く」が、最近発足した「ツーリズムてしかが」のスタッフによって行われた。20人近くが参加し硫黄山から川湯温泉までの小道を歩いた。
硫黄山はアイヌ語で「アトサヌプリ」、裸の山と呼ばれ、硫黄の噴煙が大小1500にのぼる噴気孔から立ち上っている。硫黄を大量に含んだガスの温度は摂氏100度を超す。これによって地下にある摩周湖の伏流水が温泉の湯となって川湯温泉街に噴出する。一方、硫黄山の北側100ヘクタールは、pH1.5~2.1という強い酸性の火山性ガスが流れることによって通常の植物は生えない。ここにあるのは北海道の他の場所では標高1500メートルの高山で生育する、ハイマツやイソツツジ、ガンコウランなどだ。何と、つつじが原は海抜150メートルという低さ。低い所なのに高山植物が生えている。ここが、つつじが原の面白いところだ。
上から3段目;手前から硫黄山、かぶと山、帽子山。枯れた木も地中に微生物がほとんど住めないため腐らずに残っている。まさに自然のオブジェだ。イソツツジは6、7月に白い花を咲かせるが、いまは霜でしおれた形相を呈している。でも葉はほとんど散らずに雪と氷の下で春まで過ごす。
2009年10月27日 17:22
2009年10月27日 16:45
2009年10月27日 16:23
2009年10月24日 18:55
2009年10月24日 18:44
2009年10月24日 18:03
2009年10月24日 17:35
2009年10月24日 17:08






弟子屈の街の中心部にある弟子屈営林署跡にやってきた。帯広営林局の下にあったが、組織改正で廃止され、建物はいま、てしかが郷土研究会が使っている。のちほど取り上げるが、川湯の硫黄山での硫黄採掘がわずかな期間で終了すると、弟子屈には産業がなくなるが、当時、全域を覆っていた豊かな原生林が幸運にも明治23年に御料局、のちの帝室林野局札幌支局川上出張所が設置され、明治30年に2000万坪にも達する広大な土地が御料局農地と決定され、入植者が募集された。翌31年、札幌農学校で学んだ小田切栄三郎が赴任してきて、畜産と畑作の混合農業を指導し、これが弟子屈の基礎を築いた。富山など各地から入植者が相次いだ。こうした歴史を持つ、もと弟子屈営林署の敷地には珍しい巨木が残っていて、「てしかが百年の森」と呼ばれている。たとえば中段左のアオダモは樹齢200年くらいとみられる。なお現在、弟子屈町内にある森林事務所は、釧路にある根釧西部森林管理署の下に弟子屈、美留和、屈斜路、川湯の各森林事務所がある。
下段の木造の建物は、終戦まで各国民学校に設置が義務づけられていた、天皇の写真と教育勅語を奉安した「奉安殿(ほうあんでん)」の一つ、仁多小学校にあったものが保存されている。
2009年10月24日 13:10








弟子屈村は明治36年に誕生した。熊牛村(現在の標茶町)から分離して弟子屈外1村戸長役場が弟子屈の街に置かれた。外1村というのは屈斜路村のことで、つまり2つの村が共同で役場を運営していたのだ。当時の人口は2村で616人。弟子屈という名前は、アイヌ語で「ヤナの岸の上」という意味で、上段左の写真のみんなが集まっている場所がそうだった。ここは幕末のころ釧路川が湾曲していて、ヤナのような広い岩盤があり、アイヌの人たちが魚を獲ろうとしても、なかなかとれなかったそうだ。150年前の幕末に幕命で北海道の調査にあたった松浦武四郎が訪れたときに、ここには8戸の人家があっただけだったことが記録に記されている。内地から最初に住み着いたのは、石川県人の本山七衛門で、明治18年(1885年)、ここに本山旅館を開設した。この付近は弟子屈の中心となった。ちょうど硫黄山の採掘の時期だった。上段右は大正時代の本山旅館、その後、摩周パークホテルに発展したが、数年前に閉鎖された。本山の翌年に福山ウメが丸米(マルコメ)旅館を開いた。ここも閉鎖されている。弟子屈村は戦後の昭和22年7月1日、町に昇格した。弟子屈町の人口が一番多かったのは昭和35年、1万3262人だったが、いまは8500人に減っている。とくに平成になってからの弟子屈中心部の衰退がいちじるしい。下段右の写真はかつて映画館があった所。
2009年10月24日 11:50







弟子屈の市街地からすぐの所から殖民軌道が始まっていた。現在は舗装道路になっていて、国道243号線より北側の仁多峠を通っている。殖民軌道は道路もまだ整備されていなかった大正から昭和初期にかけて、農家の生産物などを運ぶために北海道が道東、道北に建設した軌道幅762ミリの簡単な軌道で、農家は管理組合に使用料を払って自分の馬を持ち込んで台車をひかせた。弟子屈でも、大正8年(1933年)10月、弟子屈と東隣りの標茶町虹別との間約21.9キロの弟子屈線が開通したが、6年後に峠から標茶側の線路が撤去されて、短い区間しか使えなくなった。それも昭和24年2月で廃止になった。この殖民軌道は北海道独特のもので、戦後は簡易軌道という呼び名で馬に代わってガソリンカーにひかれて使われていたが、昭和46年を最後に姿を消した。地図は、新潮社発行の「日本鉄道旅行地図帳、1号、北海道」から。
もうひとつの平野部が写っている付近、摩周山麓には、昭和10年3月、この地方に合った農業経営を体験させるための拓殖実習場釧路実習場が開設された。北海道が道東・道北の5カ所に開いたもので、釧路実習場は摩周山麓の1000町歩という広大な土地が与えられた。実習生たちは1年間の寄宿舎生活で家畜を主体とした農業を学んだ。現在、この地は摩周湖カントリークラブなどになっている。一番下は、かつての代表的な牧舎である「キング式牧舎」。これとサイロは酪農家の象徴だったが、いまはサイロは不要となり、牧舎はカマボコ型に変わってきている。
2009年10月24日 10:58
2009年10月23日 21:55






バスは国道391号線から池の湯林道に入り、しばらく北進すると、硫黄山南側の低いかん木がわずかにある、禿げた土地に出会った。ここが弟子屈や道東の発展のきっかけを作った、硫黄山の精錬所の跡だ。とはいっても、いまも残る釜の残骸から見ても原始的な濃縮が行われていたようだ。明治10年、佐野孫右衛門が政府の許可を得て、北側にそびえる硫黄山(510メートル)で露天掘りを開始。ここで濃縮した硫黄を400頭の馬を使って、45キロ下流の標茶まで運び、そこからは釧路川を汽船で釧路まで輸送した。明治20年、採掘権は安田財閥の安田善次郎の手に移った。安田は資本を投入してこの間に北海道では2番目となる鉄道を敷設。この場所の手前でYの字に分かれた線路がここまで入ってきた。しかし乱掘がたたって、わずか9年で大規模採掘はできなくなり、鉱山と鉄道は廃止された。硫黄は火薬、マッチ、肥料などの原料で、日清戦争もあって、高く売れた。安田は投資を回収してあまる利益を上げたようだ。囚人労働などの問題をかかえてはいたが、この鉱山の開発は、川湯や弟子屈の宿、弟子屈の人口増、釧路の炭鉱、釧路港の整備などを呼び起こした。
2009年10月23日 20:50






古代から硫黄の黄色い噴煙を上げ、今も観光地になっている硫黄山の北側。明治の短い期間は、まさに野蛮な収奪式露天採掘が繰り広げられた。多くの囚人が過酷な労働で命を落とし、両手を縛られた状態の遺体も後に発掘されたという。中段左は硫黄の原石、右はここで精錬し純度が高まった硫黄。
下段の蒸気機関車は、当時硫黄を輸送するのに使われたアメリカ製機関車、進善号の3分の1模型。線路幅は今のJR在来線と同じ1067ミリ。貨車はイギリス製、レールはドイツ製だった。この鉄道=安田鉱山鉄道は明治20年に開業、明治25年には一般旅客も乗せられるように釧路鉄道と改称したが、明治30年、鉱山の休止とともに廃止された。まさに悪夢のような繁栄だった。のちにこの線路に沿って現在の釧網線が敷かれた。
2009年10月23日 20:10
2009年10月23日 18:17
2009年10月23日 17:55



左;更科源蔵(さらしな・げんぞう、1904~1985)は屈斜路湖畔・コタンの小学校で代用教員をしていたが、そのころよく散歩していたと思われる高台から見下ろしたコタン地区。更科源蔵は詩人、郷土歴史家。弟子屈町熊牛原野に生まれ、麻布獣医学校中退。アイヌの悲しい歴史に根ざす抒情詩「種芋」などの詩集や著作がある。「弟子屈町史」も表わした。中と右は屈斜路原野の畑作地帯。畑作だけの農家は町内に20戸しかないという。ところで摩周湖と藻琴山の間は屈斜路カルデラになっている。長径が26キロ、短径が20キロで、阿蘇カルデラを超えて日本最大である。
北海道の歴史は浅い。大部分が明治以降だ。それでも、それなりの歴史があり、それを知らずに生きることは恥ずかしいことだ。3年前に移住してきた私もこれでようやく市民権を得られたかも、、、。紅葉も沢山見れてよかった。
2009年10月20日 21:52
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