2009年11月30日 21:12
2009年11月30日 20:57
2009年11月26日 14:52








10月中旬、網走の「モヨロ遺跡」を訪れた。司馬遼太郎の「街道をゆく オホーツク街道」を読み、このモヨロ遺跡に代表される北海道のオホーツク海岸には、「オホーツク人」という謎の民族が存在していたことを知ったからである。
モヨロ遺跡は、網走駅からそう遠くない、網走川河口左岸(北岸)の漁港の横にある。1913年(大正3年)に網走にやってきたアマチュアの考古学研究家、米村喜男衛(よねむら・きおえ)氏が発見した。発掘した土器から、縄文文化ともアイヌ文化とも異なる、別の文化であることがわかり、「オホーツク文化」と呼ばれるようになった。そして米村氏の努力などで、1936年(昭和11年)、国の史跡に指定された。戦時中、海軍の施設建設で一部が壊されたが、戦後、高校生らも参加する大規模な発掘調査が行われ、北海道に考古学ブームをもたらした。
2009年11月26日 14:21






遺跡の横に網走市の「モヨロ貝塚館」がある。中に入ると、建物自体が竪穴式の大型住居の形になっていた。米村氏らが発掘した出土品が展示されているが、貝塚から見て縄文時代晩期、続縄文時代(日本本土の弥生時代に相当する、北海道独自の時代)に続いて、オホーツク文化時代の生活がここで営まれていたことがわかった。このオホーツク人は5世紀から9世紀(樺太などではこれより長い3世紀から13世紀)にかけて北海道のオホーツク海岸、樺太、千島の沿岸部に住み、アザラシなどの海獣やクジラ、魚や貝類を獲って生活していた。しかし9世紀に擦文(さつもん)文化(これも北海道だけの時代区分で、本土の飛鳥・奈良・平安時代にあたる)の影響が強まると、こつぜんと消滅してしまう。まさに謎の民族である。下段右は埋葬されていた人骨。
2009年11月26日 13:55





オホーツク人とはどんな人種だったのだろうか。北大の研究グループが発掘された人骨(上段右はシカの骨)から遺伝子の断片を取り出しDNAを解読したところ、オホーツク人はいまでも樺太(サハリン)中部以北とシベリヤに住む少数民族のニヴフ(ギリヤーク)と、シベリヤのアムール川下流に住むウリチと、遺伝子がもっとも近いことがわかったという。またオホーツク人は消えたとされているが、アイヌ民族の形成に一部の集団がかかわったと考えられるという。
モヨロ遺跡のようなオホーツク人の遺跡は、さらに北の常呂などオホーツク沿岸の河口部に散在している。
網走市では戦後、樺太から引き揚げてきたオロッコ人やギリヤーク人の協力を得て、「オロチョンの火祭り」を毎夏行ってきた。現在は「モヨロの夜祭り」として、10月1日から11月8日にかけて、網走湖畔呼人浦キャンプ場で行われている。
2009年11月24日 20:17
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